書籍と思想 現代の賢人たち

「起業家として生まれる人間はいない」——ボーヴォワールとイマンガジが教える、“なること”の重さ

「自分は、そういうタイプじゃない」

何かを始めようとするとき、僕たちはよくこの言葉を使う。

自分は起業家向きではない。
自分は発信者向きではない。
自分は人前で話せるタイプではない。
自分はクリエイティブな人間ではない。

一見すると、それは冷静な自己分析のように聞こえる。

自分の性格をわかっている。
自分の得意不得意を理解している。
無理なものには手を出さない。

たしかに、それも一つの賢さかもしれない。

でも、少しだけ疑ってみたい。

その「向いていない」は、本当に自分の本質なのだろうか。

それは、ただまだ十分にやっていないことではないのか。
まだ慣れていないことではないのか。
過去の失敗や、誰かの言葉や、これまでの環境によって、そう思い込まされているだけではないのか。

起業家であり、ビジネス系YouTuberでもあるIman Gadzhiは、ビジネスについてかなり現実的な言葉を投げかける。

綺麗ごとではない。
夢を見ろ、信じろ、宇宙に願え、という話でもない。

彼はむしろ、かなりドライに語る。

今日の行動は、明日の結果ではなく、1年後の結果につながる。
知性よりも、行動が人を変える。
自分を狂った科学者のように研究しろ。
何をすれば、明日の自分がよりよく動くのかを知れ。

動画の中でも、イマンガジは「今日の行動は来年の結果につながる」と語り、短期的な結果ではなく、長期的な視点で行動を積み上げる重要性を強調している。

彼の主張を一言でまとめるなら、こうなる。

人は、最初から起業家なのではない。起業家になっていく。

この言葉だけを聞くと、現代的なビジネス論に見える。

けれど、その奥には、20世紀フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールが語った「なること」の哲学がある。

ただし、ここで気をつけなければならない。

ボーヴォワールの言葉は、単なる「努力すれば誰でも何にでもなれる」という自己啓発ではない。

むしろ彼女が見ていたのは、人が自由に選んでいるように見えて、実際には社会や文化や権力によって、あらかじめ選べるものを狭められているという現実だった。

だからこそ、イマンガジとボーヴォワールを並べる意味がある。

片方は、現代のビジネスの現場から「行動によって人は変わる」と言う。
もう片方は、哲学の場所から「人は社会によって作られる」と言う。

この二人は、まったく違う場所にいる。

けれど、「人間を固定された本質として見ない」という一点で、静かに交差している。

「向いていない」は誰が決めたのか

「自分は起業家向きではない」

この言葉は、とても便利だ。

なぜなら、それ以上考えなくて済むからだ。

向いていないから、やらない。
向いていないから、挑戦しない。
向いていないから、学ばない。
向いていないから、失敗しなくて済む。

もちろん、本当に向き不向きはある。

人には気質がある。
得意なこともあれば、苦手なこともある。
体力、家庭環境、経済状況、健康状態、年齢、地域、人間関係。
そうした条件によって、始めやすいことと始めにくいことは確実にある。

だから、「やれば誰でも成功できる」とは言えない。

そう言い切ってしまうと、できなかった人の責任だけを過剰に大きくしてしまう。

でも同時に、「向いていない」という言葉が、あまりにも早い段階で使われすぎているとも思う。

まだ十分に試していないのに、向いていないと言う。
まだ失敗の数も足りないのに、才能がないと言う。
まだ環境を変えていないのに、自分の本質だと決める。

それは本当に自己理解なのだろうか。

それとも、これまでの人生で作られた自己像に、自分で従っているだけなのだろうか。

たとえば、子どもの頃に「お前は人前に出るタイプじゃない」と言われた人は、人前に立つことを避けるようになるかもしれない。

学校で作文を褒められなかった人は、「自分は文章が苦手だ」と思い込むかもしれない。

親や周囲から「安定した道を選びなさい」と言われ続けた人は、自分の中から出てきた小さな違和感や欲望を、「現実的ではない」と片づけるかもしれない。

そのとき、「私はこういう人間だ」という感覚は、本当に自分の中から出てきたものなのか。

それとも、社会や環境によって少しずつ作られたものなのか。

ここで、ボーヴォワールの言葉が効いてくる。

ボーヴォワールと「なること」

シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、1908年に生まれたフランスの哲学者・作家だ。

彼女の最も有名な言葉に、こういうものがある。

「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」

この言葉は、『第二の性』の中で語られた。

多くの場合、この一文はフェミニズムの文脈で紹介される。

「女性らしさ」は、生まれつき身体の中に埋め込まれた固定的な本質ではない。
社会、文化、教育、家族、制度、視線、期待によって、少しずつ作られていくものだ。

つまりボーヴォワールは、「人間には生まれた瞬間から固定された役割や本質がある」という考え方に疑問を投げかけた。

人は、最初から完成された何者かとして存在しているわけではない。

人は、なる。

ただし、この「なる」は、明るい可能性だけを意味する言葉ではない。

人は、自分の意志だけで自由に何者かになるのではない。
同時に、社会によって「そういうもの」として作られてしまう。

女性らしくあれ。男らしくあれ。
安定した仕事に就け。目立つな。
失敗するな。普通でいろ。
ちゃんとしろ。現実を見ろ。

そうした言葉の積み重ねが、人の選択肢を狭めていく。

だから、ボーヴォワールの「なること」は、単純な希望ではない。

それは、希望であると同時に怖さでもある。

人は変われる。
でも、人は作られてしまう。

この二つを同時に見なければならない。

もしこの重さを抜きにして、「だから起業家にもなれる」とだけ言ってしまえば、ボーヴォワールの思想はただの自己啓発の燃料になってしまう。

大切なのは、「自分は何者にもなれる」と叫ぶことではない。

むしろ問うべきなのは、

誰が、自分に“向いていない”と思わせたのか。

ということだ。

イマンガジの言葉が響く理由

イマンガジの言葉は、かなり実務的だ。

彼は「行動が知性に勝つ」と語る。
どれだけ頭がよくても、実際に動かなければ何も変わらない。
反対に、特別な才能がなくても、行動を重ねる人間は現実を動かしていく。

この主張だけを取り出すと、よくあるビジネス自己啓発に見える。

でも、ボーヴォワールの視点を通すと、少し違って見えてくる。

行動とは、単に結果を出すための手段ではない。

行動は、自分を作り替える行為でもある。

営業する人間になるには、営業するしかない。
書く人間になるには、書くしかない。
人前で話す人間になるには、人前で話すしかない。
事業を作る人間になるには、小さくても何かを売り、届け、失敗し、直すしかない。

最初から「それっぽい人」になる必要はない。

むしろ、最初はそれっぽくないまま始めるしかない。

僕自身も、最初から人前で何かを表現できるタイプだったわけではない。

音楽をやっていた頃、ライブのたびに他人と比べて落ち込んだ。
自分より上手い人、自分より堂々としている人、自分より自然に人を惹きつける人。
そういう人たちを見るたびに、「自分は向いていないのかもしれない」と思った。

でも、何度もステージに立つうちに、少しずつ変わっていった。

緊張しなくなった、というより、緊張したまま立てるようになった。
自信がついた、というより、自信がないままでも出せるようになった。
向いていたから続けられたのではない。
続ける中で、少しずつ「人前に立つ人間」になっていった。

たぶん、そういうことなのだと思う。

「なる」とは、最初から自分の中にあった才能が開花することだけではない。

不慣れな行動を繰り返すうちに、自分の輪郭が変わっていくことだ。

自由は、重い

ただし、「人はなることができる」という考え方は、優しいだけではない。

むしろ、かなり重い。

なぜならそれは、自分の選択に責任を持つということだからだ。

ボーヴォワールが考えた自由は、軽いものではない。

自由とは、「好きなように選べる」という単純な話ではない。
自分が置かれた状況を引き受けながら、それでもどう生きるかを選ばなければならない、という重さのことだ。

人は完全には自由ではない。

生まれた場所を選べない。
親を選べない。
身体を選べない。
時代を選べない。
最初に与えられる資本や環境も選べない。

でも、それでもなお、すべてを環境のせいだけにして終わることもできない。

ここが難しい。

「全部自己責任だ」と言えば、人を追い詰める。
「全部社会のせいだ」と言えば、自分の選択が消える。

ボーヴォワールの哲学が鋭いのは、そのどちらにも逃げないところだと思う。

人は構造に縛られている。
でも、その中でどう振る舞うかを問われてもいる。

「自分は起業家向きではない」と言うことも、一つの選択だ。

もちろん、それが悪いわけではない。
起業しない人生にも価値はある。
会社員として働くことにも、家族を守ることにも、静かに生活を積み上げることにも、十分な意味がある。

問題は、「本当はやってみたい」のに、「向いていない」という言葉で自分を閉じるときだ。

そのとき、僕たちは自分の自由から少し逃げているのかもしれない。

やらないことも、選択である。

発信しないこと。
作らないこと。
売らないこと。
学ばないこと。
人前に出ないこと。
小さく試さないこと。

それらは「何も選んでいない」ように見えて、実は一つの未来を選んでいる。

変わらない未来を選んでいる。

もちろん、休むことは大切だ。
何でもかんでも行動すればいいわけではない。
無理に自分を追い込む必要もない。

ただ、「向いていない」という言葉が出たときには、一度だけ立ち止まってもいい。

それは本当に自分の声なのか。

それとも、これまでの環境が自分に覚えさせた声なのか。

自分を研究する

イマンガジの言葉の中で、個人的にかなり面白いと思うのが、「自分を狂った科学者のように研究しろ」という話だ。

彼は、自分のビジネスが伸びるのは、自分が健康で、高いパフォーマンスで動けているときだと気づいたという。
だから、自分が何をしたら翌日よく動けるのかを記録し、把握するべきだと語っている。

これは、ただの自己管理ではない。

「なること」のための、かなり実践的な態度だと思う。

人は気合いだけでは変われない。

自分はどういうときに動けるのか。どういうときに崩れるのか。
何をすると翌日の自分が整うのか。何をすると集中力が落ちるのか。
誰と話すと前向きになるのか。どんな環境だと書けるのか。
どんな時間帯なら考えられるのか。

そういうことを観察する。

自分を責めるのではなく、研究する。
自分を決めつけるのではなく、記録する。
自分を変えようとする前に、自分が動ける条件を知る。

これは、ボーヴォワールの「なること」を現代的に実践する方法の一つかもしれない。

なりたい自分があるなら、まずはその自分になりやすい条件を整える。

起業家になりたいなら、起業家らしい大きな決断をいきなりする必要はない。

小さく売ってみる。
数字を見てみる。
誰かの困りごとを聞いてみる。
自分の提供できる価値を言葉にしてみる。
失敗した理由を記録してみる。

そういう小さな行動の積み重ねが、自分の輪郭を変えていく。

「なること」は、精神論ではない。

設計であり、観察であり、反復である。

「私はこういう人間だ」を少し疑う

僕たちは、自分のことをわかっているようで、案外わかっていない。

過去の失敗を、自分の本質だと思ってしまう。
過去に言われた言葉を、自分の限界だと思ってしまう。
今できないことを、一生できないことだと思ってしまう。

でも、それは本当に本質なのだろうか。

ただの経験不足かもしれない。ただの練習不足かもしれない。
ただの環境不足かもしれない。ただの思い込みかもしれない。

「私はこういう人間だ」という言葉は、安心をくれる。

でも同時に、檻にもなる。

私は内向的だから。私は営業が苦手だから。
私は継続できないから。私は才能がないから。
私はそういうタイプじゃないから。

そう言うたびに、自分の未来は少しずつ狭くなる。

もちろん、自分を理解することは大切だ。

苦手なことを無理に得意だと思い込む必要はない。
向いていない場所で自分を壊す必要もない。

でも、自己理解と自己固定は違う。

自己理解は、自分を扱いやすくするためにある。
自己固定は、自分の可能性を閉じるためにある。

「私はこういう人間だ」と思ったとき、もう一つだけ問いを足してみる。

それは、いつからそう思っているのか。
誰の言葉から、そう思うようになったのか。
本当に、今もそうなのか。

この問いがあるだけで、自分の輪郭は少しだけ揺らぐ。

そして、その揺らぎの中に、次の選択肢が生まれる。

「なる」は、魔法ではない

人は、起業家として生まれるのではない。
起業家になる。

でも、それは魔法ではない。

思っただけでなれるわけではない。
夢見ただけで変わるわけでもない。
一度の決意で人生が反転するわけでもない。

むしろ「なること」は、もっと地味だ。

今日、少しだけ売る。
今日、少しだけ書く。
今日、少しだけ学ぶ。
今日、少しだけ人に見せる。
今日、少しだけ失敗を記録する。
今日、少しだけ自分の思い込みを疑う。

その小さな選択は、すぐに結果を出さない。

でも、1年後の自分を静かに変えているかもしれない。

イマンガジの言うように、今日の行動は来年の結果につながる。

そしてボーヴォワールの視点で言えば、今日の行動は、来年の自分の「あり方」にもつながっている。

何をしたか。何をしなかったか。
何を選んだか。何を選ばなかったか。
どんな言葉を疑ったか。どんな自己像から抜け出そうとしたか。

その積み重ねが、自分を作っていく。

「向いていない」は、結論ではない。

ただし、「なれる」は、軽い希望でもない。

私たちは制約の中にいる。
環境の影響を受けている。
社会に作られている。
過去の言葉に縛られている。

それでもなお、少しずつ選び直すことはできる。

その選び直しの連続を、ボーヴォワールは「なること」と呼んだのだと思う。

起業家として生まれる人間はいない。

でも、起業家になる人間はいる。

その違いは、生まれつきの才能だけではない。

自分に貼られたラベルを疑えるか。
環境に作られた自己像を見抜けるか。
制約の中で、それでも小さく選び直せるか。

そこにある。

「自分はそういうタイプじゃない」

そう言いたくなったとき、少しだけ問いを変えてみる。

本当にそうなのか。

それとも、まだそうなっていないだけなのか。

そしてもう一つ。

誰が、自分にそう思わせたのか。

その問いからしか始まらない変化がある。

  • この記事を書いた人

まっきー

「マキログ」は、身体を鍛え、心を整え、思考を磨く——そんな“日々の実験”を記録するブログです。 本の要約や海外インフルエンサーの翻訳を通して、内側から人生を整えていく感覚を綴っています。

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