現代の賢人たち

なぜ頑張っても虚しいのか|Jordan Petersonが語る「意味ある苦しみ」の哲学

頑張っていないわけではない。

むしろ、ちゃんとやっている。
仕事もしている。
家族のことも考えている。
やるべきことも、それなりにこなしている。
周りから見れば、たぶん大きく間違ってはいない。

でも、ふとした瞬間に思うことがある。

この先に、何があるんだろう。

評価されること。
売上を上げること。
役割を果たすこと。
期待に応えること。
ちゃんとした大人として生活を回すこと。

それらは大事だ。

大事だとわかっている。
わかっているからこそ、ちゃんとやろうとする。

でも、どこかで引っかかる。

自分は今、本当に自分の人生を生きているのか。
それとも、誰かに用意された評価軸の上で、うまく走ろうとしているだけなのか。

最近、そんな違和感を覚えることが増えた。

会社に評価されても、思ったほど嬉しくない。
褒められたらありがたい。
成果が出れば安心する。
でも、心の奥が震えるかと言われると、そうでもない。

一方で、文章を書くこと。
AIを使って何かを形にすること。
日々の違和感をジャーナルに残すこと。
筋トレで身体を少しずつ変えていくこと。
自分の言葉で、何かを誰かに届けようとすること。

そういうものには、面倒くささもある。
しんどさもある。
誰に頼まれたわけでもないのに、勝手に苦しくなることもある。

でも、不思議とそちらのほうが「生きている感じ」がある。

この差は、何なのだろう。

Jordan B. Petersonの『We Who Wrestle with God』は、その問いにひとつの言葉を与えてくれる。

人生に必要なのは、苦しみを消すことではない。
意味のある苦しみを、自分で選ぶことなのではないか。

神と格闘するとは、人生と格闘すること

『We Who Wrestle with God』というタイトルは、旧約聖書に登場するヤコブの物語に由来する。

ヤコブは、夜明けまで神のような存在と格闘する。
そして傷を負う。
その後、彼は新しい名前を与えられる。

イスラエル。
「神と格闘する者」という意味を持つ名前だ。

この物語を、現代の私たちはどう読めばいいのだろう。

神を信じるかどうか。
聖書を宗教として受け入れるかどうか。
もちろん、そういう読み方もある。

でも、Petersonは旧約聖書の物語を、単なる宗教的教義としてだけではなく、人間の心理や人生の構造を映し出す神話として読む。

つまり、ヤコブが神と格闘する物語は、
人間が自分より大きな現実と格闘する物語でもある。

自分では選べなかった環境。
思い通りにならない仕事。
他人との比較。
家族を持つことの重さ。
老い。
失敗。
才能の差。
過去の後悔。
未来への不安。

私たちは、自分の人生を完全にはコントロールできない。

どれだけ計画しても、予定通りにはいかない。
どれだけ努力しても、報われないことがある。
どれだけ大切にしていても、失うものがある。

それでも、そこから逃げずに向き合う。
問い続ける。
傷つきながらも、格闘する。

その過程で、人は少しずつ変わる。

ヤコブは神と格闘し、傷を負い、新しい名前を得た。
Petersonがこの物語に見ているのは、たぶん「変容には傷が伴う」という事実だ。

人生を変えるものは、だいたいこちらを傷つけてくる。

本気で仕事に向き合えば、自分の未熟さが見える。
家族を大切にしようとすれば、自分の身勝手さに気づく。
文章を書けば、言葉の浅さに落ち込む。
発信すれば、誰にも届かない現実にぶつかる。
身体を変えようとすれば、今までの怠惰と向き合うことになる。

でも、その傷はただのダメージではない。

逃げずに向き合った証でもある。
自分の人生を、他人任せにしなかった痕跡でもある。

苦しみには、逃げるべきものと選ぶべきものがある

ここで誤解したくないことがある。

Petersonの言う「苦しみを引き受けろ」は、ブラック企業に耐えろとか、理不尽に我慢しろという話ではない。

苦しみを美化してはいけない。

人格を壊す苦しみ。
搾取される苦しみ。
意味のない我慢。
誰かの都合だけで押しつけられる責任。
逃げ場を奪われるような環境。

そういうものは、避けたほうがいい。
逃げていい。
距離を取っていい。

ただ一方で、人生には「選ぶべき苦しみ」もある。

自分の未熟さを認める苦しみ。
大切な人のために時間を使う苦しみ。
未来のために、今の快楽を少し手放す苦しみ。
誰にも評価されない時期に、それでも続ける苦しみ。
本当は見たくない自分の弱さに向き合う苦しみ。

この二つを分けないと、話がおかしくなる。

すべての苦しみを美化すれば、ただの自己犠牲になる。
逆に、すべての苦しみを悪者にすれば、成長も責任も消えてしまう。

大事なのは、苦しみをゼロにすることではない。

どうせ苦しみが避けられないのなら、
どの苦しみに自分の人生を差し出すのか。

そこを選ぶことなのだと思う。

たとえば、会社の評価だけを追いかける苦しみがある。

数字を追う。
期待に応える。
上司や組織の評価軸に合わせる。
それも仕事としては必要だ。

でも、それだけで自分の人生が満たされるかというと、私の場合は少し違った。

一方で、文章を書く苦しみがある。

考えがまとまらない。
言葉が出てこない。
うまく書けたと思っても、読まれない。
自分の浅さが見える。
それでも、書きたいと思ってしまう。

AIを使って何かを作る苦しみもある。

思った通りに動かない。
設計が甘いと破綻する。
やりたいことが多すぎて散らかる。
それでも、自分の中にある違和感やアイデアを形にできた瞬間、少しだけ未来が開ける。

筋トレもそうだ。

面倒くさい。
脚トレは気が重い。
やる前は嫌だ。
でも、やった後には「今日も少しだけ自分を裏切らなかった」という感覚が残る。

こういう苦しみは、楽ではない。

でも、自分で選んでいる。
だから意味がある。

カインとアベル——最善を捧げられない自分

Petersonが旧約聖書から読み解く物語の中でも、カインとアベルの話はかなり刺さる。

兄カインと弟アベル。
二人はそれぞれ神に捧げ物をする。

アベルの捧げ物は受け入れられ、
カインの捧げ物は受け入れられない。

その結果、カインは弟アベルを殺してしまう。

この物語を、単なる兄弟の嫉妬として読むこともできる。

でもPeterson的に読むなら、これはもっと痛い話だ。

カインは、最善を捧げられなかった人間だ。
そして、自分が最善を捧げていないことを、どこかで知っていた人間でもある。

だからこそ、最善を捧げているアベルが許せなかった。

これは、現代の私たちにもかなり近い。

自分より真剣にやっている人を見ると、腹が立つことがある。

本気で発信している人。
淡々と積み上げている人。
努力を継続している人。
自分の道を進んでいる人。
恥をかきながらも、表に出し続けている人。

そういう人を見ると、素直に尊敬できる日もある。

でも、状態が悪いときには、別の感情が出る。

どうせ才能があるから。
環境に恵まれているから。
運が良かっただけだから。
ああいうのは綺麗事だ。
自分とは違う。

そうやって、相手を引きずり下ろしたくなる。

でも本当は、相手が問題なのではない。

自分が最善を捧げていないことを、自分で知っている。
その痛みを見せられるから、腹が立つ。

これはかなり嫌な話だ。

でも、だからこそ大事だと思う。

私たちの中には、たぶんカインがいる。

やればいいとわかっているのに、やらない自分。
本当はもっと丁寧にできるのに、雑に済ませる自分。
挑戦していないのに、挑戦している人を批評する自分。
最善を尽くしていないのに、報われないことに腹を立てる自分。

この自分と向き合うのは、しんどい。

でも、ここから逃げると、人生はどんどん他責になる。

あの人が悪い。
会社が悪い。
時代が悪い。
環境が悪い。
運が悪い。

もちろん、本当に環境が悪いこともある。
社会構造の問題もある。
努力だけではどうにもならないこともある。

それでも、自分の人生のどこかには必ず問われる部分が残る。

自分は、何を捧げたのか。
自分は、何を雑に扱わなかったのか。
自分は、どこまで誠実にやったのか。

この問いからは、たぶん逃げられない。

最善を捧げるとは、完璧になることではない

ただし、「最善を捧げる」という言葉も危ない。

これを間違えると、完璧主義になる。

毎日100点を出せ。
常に全力で走れ。
休むな。
甘えるな。
もっと成果を出せ。

そういう話ではない。

私が思う「最善」は、もっと静かなものだ。

今日の体力で、できることをやる。
今の自分の未熟さを認めたうえで、一歩だけ前に出す。
言い訳を全部消すことはできなくても、一つだけ減らす。
完璧ではないけれど、雑には扱わない。

それくらいの感覚に近い。

文章を書くなら、今日の自分なりに言葉を逃がさない。
仕事をするなら、目の前の相手の課題を雑に扱わない。
家族と過ごすなら、スマホを見ながら半分だけそこにいる状態を少し減らす。
筋トレをするなら、完璧なメニューではなくても、とりあえず身体を動かす。

最善とは、派手な成果ではなく、
「今日は自分をごまかさなかった」と思える小さな行為なのかもしれない。

そして、この小さな最善の積み重ねが、意味をつくる。

他人から見れば、たいしたことではない。
数字にもならない。
すぐに評価されるわけでもない。

でも、自分にはわかる。

今日、逃げたのか。
それとも、少しだけ向き合ったのか。

その違いは、自分だけはごまかせない。

無意味の不安と、存在への勇気

ここで、ポール・ティリッヒの『存在への勇気』を思い出す。

ティリッヒは、人間には根源的な不安があると考えた。

死の不安。
罪責の不安。
そして、無意味の不安。

現代人にとって特に深いのは、この「無意味の不安」ではないかと思う。

生活はできている。
仕事もある。
便利なものもある。
楽しみもある。

でも、何のために?

この問いが、ふとした瞬間に顔を出す。

頑張っているのに虚しい。
成果が出ても満たされない。
評価されても、思ったほど嬉しくない。
周りから見ればうまくいっているのに、自分の中では何かが足りない。

これは、怠けているからではないと思う。

むしろ、ちゃんと生きようとしているからこそ出てくる問いなのだと思う。

Petersonが語る「責任」や「犠牲」や「神との格闘」は、ティリッヒの言葉で言えば、無意味の不安に対して、それでも存在しようとする勇気なのかもしれない。

意味が見つかるまで待つのではない。

意味があると確信できるから動くのでもない。

不安なまま、わからないまま、
それでも自分が大事だと思うものに時間を差し出す。

その行為の中で、少しずつ意味が発生していく。

私にとっての格闘は、会社と戦うことではない

では、私にとっての「神との格闘」とは何だろう。

最初は、会社に縛られたくないという感覚があった。

評価されることに、昔ほど心が動かない。
会社の中でうまくやることだけを人生の中心に置くことに、違和感がある。
このまま評価される人間になって、その先に自分は何を見たいのか。

そんな問いがあった。

でも、それは単に会社から逃げたいという話ではない気がしている。

仕事そのものが嫌いなわけではない。
人の課題を整理したり、提案を考えたり、仕組みを作ったりすることには面白さを感じている。

だから、私にとっての格闘は、会社と戦うことではない。

会社の評価だけで、自分の人生の意味を決めないこと。

ここなのだと思う。

評価されるためだけに頑張るのではなく、
自分が本当に大事だと思うものにも時間を差し出す。

言葉を書くこと。
創作すること。
AIで仕組みを作ること。
身体を整えること。
家族との時間を雑に扱わないこと。
自分の違和感をなかったことにしないこと。

どれも楽ではない。

むしろ、会社の評価軸に乗っているだけのほうが、ある意味では楽かもしれない。

評価基準が外にあるからだ。
何をすればいいかがわかりやすい。
数字もある。
役割もある。
褒められるポイントもある。

でも、自分で意味を作ろうとすると、途端に難しくなる。

誰も正解をくれない。
すぐに成果も出ない。
続けても読まれないかもしれない。
作っても使われないかもしれない。
選んだ道が正しい保証もない。

それでも、そちらに向かいたいと思う。

なぜなら、その苦しみは自分で選んだものだからだ。

「あの日の自分がガッカリしない人間でいる」ということ

最近、自分の中に残っている言葉がある。

あの日の自分がガッカリしない人間でいる。

これは、ものすごく大きな夢や、派手な成功とは少し違う。

年収いくら。
肩書きは何。
有名になる。
大きな成果を出す。

もちろん、そういうものを否定したいわけではない。
お金も必要だし、成果も大事だ。
好きなものを好きだと言い続けるためにも、生活を守る力は必要だ。

でも、それ以上に大事なのは、
過去の自分が見たときに、今の自分をどう思うかだと思う。

音楽に本気だった自分。
サッカーで試合に出られず、それでも練習していた自分。
人の心を動かすものを作りたいと思っていた自分。
普通や当たり前に違和感を持っていた自分。
自分の声を聴いて生きたいと思っていた自分。

その自分が、今の自分を見たときにどう思うか。

ああ、うまくまとまった大人になったな。
会社の評価にきれいに収まったな。
無難に生きるのが上手くなったな。

そう思われたら、少し寂しい。

たとえ不器用でも、
まだ格闘しているな。
まだ何か作ろうとしているな。
まだ諦めてはいないな。

そう思われる人間でいたい。

これは、かなり個人的な感覚だ。

でも、Petersonの言う「神と格闘する者」という言葉は、私にはそのように響いた。

大きな神と戦うというより、
自分の中にある諦めと戦うこと。

自分の中のカインと向き合うこと。
自分の最善を雑に扱わないこと。
評価される人生だけで終わらせないこと。

その格闘をやめないこと。

人生は、どの苦しみに自分を差し出すかで決まる

苦しみは、できれば少ないほうがいい。

それは本当にそうだ。

理不尽な苦しみは減らしたほうがいい。
壊れるような環境からは離れたほうがいい。
無意味な我慢は美化しなくていい。

でも、すべての苦しみを避けようとすると、
私たちは意味のあるものまで避けてしまう。

変わることには痛みがある。
責任には重さがある。
創作には恥がある。
愛には犠牲がある。
挑戦には失敗がある。
本気には傷がある。

だから必要なのは、苦しまない人生ではない。

どの苦しみなら、自分は引き受けたいのか。
どの苦しみなら、未来の自分が振り返ったときに納得できるのか。
どの苦しみなら、あの日の自分がガッカリしないのか。

その問いを持つことなのだと思う。

Jordan Petersonの『We Who Wrestle with God』は、旧約聖書の物語を通して、現代人にこう問いかけているように感じる。

あなたは今、何から逃げているのか。
そして本当は、何と格闘したいのか。

人生を変えるのは、苦しみを避ける技術ではない。
どの苦しみなら引き受けたいかを選ぶ勇気なのだと思う。

私にとってそれは、会社の評価だけで人生を終わらせないこと。
自分の言葉を持つこと。
作ることをやめないこと。
自分の中の違和感を、なかったことにしないこと。

楽な道ではない。

でも、その苦しみなら、少し引き受けてみたい。

そう思えるものがあるうちは、
人生はまだ、薄くならない。

  • この記事を書いた人

まっきー

「マキログ」は、身体を鍛え、心を整え、思考を磨く——そんな“日々の実験”を記録するブログです。 本の要約や海外インフルエンサーの翻訳を通して、内側から人生を整えていく感覚を綴っています。

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