
ネコの心臓に耳を当てた日のこと
小学生のころ、授業で読んだ『ゾウの時間、ネズミの時間』。
本の中で印象的だったのは、「動物は大きさに関わらず、一生のうちに心臓が打つ回数はほとんど同じ」という話でした。
それを知った日の放課後、私は飼っていたネコの心臓に耳を当ててみました。
ドクドクドク……まるで小さなエンジンのように、すごい速さで動いていたのを覚えています。
そのとき、なんとなく「だからネコは長くて20年くらいしか生きないのか」と納得したのです。
国語の教科書に載っていて、私はそのお話が好きで、授業中に何度も読み返していました。
それまでは、自分よりも先に死んでしまうかもしれないペットのことを、ただ“かわいそう”だと思っていました。
けれど、この本を読んでからは、
その感情は人間の時間感覚から見た“主観”でしかないのかもしれない、
そんなことを子どもながらに思ったのを覚えています。
ふとした時に、この本を思い出すことがあります。
ネコの寝息を聞いたとき、ゆっくりとした朝の時間を過ごすとき、あるいは誰かの死を見送るとき。
あの本が教えてくれたのは、「時間はみんな同じように流れているわけじゃない」ということでした。
このブログでは、そんな『ゾウの時間、ネズミの時間』の魅力を、あらためて大人の視点から紐解いてみたいと思います。
子どもの頃には見えなかった“時間”の不思議や、今だからこそ感じる“命のリズム”の意味を、一緒に味わっていきましょう。
大きさが違っても、生きるテンポは等しい」

生きものは、その大きさによって“時間の流れ方”が違う。
本川達雄さんが『ゾウの時間、ネズミの時間』で示したのは、そんな一見当たり前のようで、深く考えたことのない真実でした。
ネズミの心臓は、毎分600回の速さで打ちつづけ、ネコは150〜200回、人間は70回、そしてゾウは30回ほど。
体が大きくなるほど、鼓動のリズムはゆるやかに、世界は少しずつスローモーションになっていきます。
けれど、面白いのはその“総量”です。
小さな命も、大きな命も、生涯で刻む鼓動の数はほとんど変わらない。
およそ20億回。
それが、多くの哺乳類が生きる間に刻む“命の拍子”だといいます。
ネズミは、矢のように速く駆け抜けながらその20億回を燃やし尽くす。
ゾウは、重たい身体でゆっくりと、同じ数の鼓動を大地に響かせる。
どちらが長いでも短いでもなく、それぞれのリズムで、限られた拍を生きている。
——時間の長さではなく、命のリズムこそが平等なのだと、この章を読むたびに、私は静かに胸の奥でそう感じるのです。
子どもの私が感じた“納得”

当時の私は、ペットの寿命を悲しみながらも、
「ネコの時間は私より速いから、同じ20年でも違う長さに感じるのかもしれない」
と、ぼんやり思っていました。
そのネコは、私の成長とともに年を取り、やがて静かに息を引き取りました。
お気に入りの毛布の上で、穏やかな寝息がそのまま途切れたように。
その瞬間、悲しみよりも不思議な納得がありました。
彼はきっと、自分の“拍”をすべて使い切ったのだと。
大人になって振り返ると、あの“納得”は、科学ではなく「命のリズム」に共感した瞬間だったのだと思います。
彼の心臓が打つ音を感じながら、私は知らず知らずのうちに
“生きるとは限られた拍を刻むこと”だと学んでいたのかもしれません。
そして今、忙しさに追われる日々のなかで、ふとネコの穏やかな寝顔を思い出すたび、「ゆっくりでいい」と思えるようになりました。
あのとき彼が見せてくれた“ゾウの時間”は、きっと今も、私の中で静かに息づいているのだと思います。
心の拍を、何に使うか

『ゾウの時間、ネズミの時間』がそっと教えてくれるのは、
時間の“量”ではなく、命の“テンポ”をどう使うかという問いです。
速くてもいい。
ゆっくりでもいい。
大切なのは、どんな速さで生きるかより、
その鼓動の一つひとつを、どんな想いで刻むか。
心臓の拍は、確実に減っていく。
けれど、その減っていくリズムの中にこそ、
私たちが「生きている」という実感がある。
今日という一日を、何に打ち鳴らすのか。
誰と、どんな音を奏でるのか。
それを選びながら生きること——
それがきっと、“生きる”ということなのだと思います。
