AI羅針盤

〇〇風は創作なのか、盗作なのか ── AI音楽カバーが流行る理由を考える【SUNO】

最近やたら見かける「あの動画」

最近、やたらと目に入ってくる光景がある。

YouTubeを開いても、TikTokを流していても、
Xのタイムラインを眺めていても、
どこかで必ず似たような動画に出会う。

「〇〇の曲をAIで△△風にしてみた」
「もしこの曲を別のアーティストが歌ったら?」
「AIカバーが想像以上にヤバい」

サムネイルも、タイトルも、演出も少しずつ違うのに、
やっていることはどれもよく似ている。

再生すると、聞き覚えのあるメロディが流れ始める。
どこかで確かに聞いたことがある。
でも、完全に同じではない。

声は違う。
アレンジも違う。
けれど、不思議なほど「それっぽい」。

そして、ふと妙な感覚に襲われる。

懐かしいような。寂しいような。
少し楽しいような。少し気持ち悪いような。

何より奇妙なのは、
「誰の表現を聴いているのか」が曖昧になる瞬間だ。

確かに歌は流れている。
確かに音楽は成立している。
なのに、その背後にいるはずの“誰か”の気配が薄い。

これが人間のカバーであれば、違和感はない。
この人が歌っている、この人が演奏している、そうした認知の土台が自然にある。

しかしAIカバーの場合、そこが少し揺らぐ。

これは誰の歌なのか。誰の解釈なのか。
そもそも「解釈」と呼んでいいのか。

気づけば、私たちは「よく知っている何かに似た、新しい何か」を
何の疑問もなく消費している。

しかも、その量は異常な速度で増殖している。

数年前には存在しなかった文化が、いつの間にか日常の風景になりつつある。

この現象は単なる流行なのか。
技術進化の副産物なのか。
それとも、もっと別の何かを示しているのか。

違和感と快感が同時に混ざるこの感覚の正体を、少しだけ丁寧に考えてみたい。

なぜ今、AIによる「〇〇風」はここまで広がったのか。

そしてそれは、創作なのか、盗作なのか。

あるいは――
私たちがまだ名前を与えていない、新しい何かなのか。

何が起きているのか?

この現象を単純に「AI技術の進化」で片付けるのは、少し乱暴かもしれない。

確かに、音楽生成AIの性能向上は大きな要因だ。
短いテキストや簡単な指示だけで、それらしい楽曲が出力される。
専門知識も、高価な機材も、長い制作時間も必須ではなくなった。

しかし、それだけでは説明しきれない違和感がある。

もし音楽文化そのものが従来のままだったなら、
ここまで「〇〇風」が自然に溶け込んだだろうか。

むしろ注目すべきなのは、
AIが登場する以前から起きていた変化の方かもしれない。

音楽を取り巻く環境の変化

サブスクの普及。ショート動画の爆発的拡大。
BGMとして流され、数秒でスキップされる音楽。

音楽は「作品」としてじっくり味わわれる時間よりも、
「流れる情報」として処理される時間の方が圧倒的に長くなった。

一曲を通して聴くという行為すら、
少しずつ特別なものになりつつある。

この変化は、音楽の価値が下がったという話ではない。
消費の形式が変わったのである。

かつて音楽は
・購入するもの
・所有するもの
・繰り返し聴き込むもの
という側面が強かった。

しかし今は違う。

・無限に供給され
・無限にスキップされ
・無限に置き換えられる

極端に言えば、音楽の大部分が「使われる素材」に近づいている。

○○風音楽を助長する構造

ここにAI音楽が接続されると何が起きるのか。

答えは、かなり示唆的である。

現在の音楽消費環境は、
「短時間」「即時性」「使い捨て」「既視感」を強く要求する構造になっている。

じっくり聴き込まれる作品よりも、
瞬時に理解され、違和感なく馴染む音が求められる。

この条件下において、AIという存在は極めて特異だ。

なぜならAIは、

・高速で生成できる
・大量生産に向いている
・「それっぽさ」を作ることを最も得意とする

からである。

つまり、文化側の要請と技術側の特性が、ほぼ完全に一致してしまう。

相性が良すぎるのである。

そしてショート動画文化は、

・短時間
・即時性
・強い既視感
・分かりやすいフック

を極端に好む。

「〇〇風」は、まさに理想的なフォーマットになる。

説明不要で伝わる。
一瞬で理解できる。
聞いた瞬間に脳が補完してくれる。

これは技術的な奇跡というより、
文化構造と技術特性が噛み合った結果に近い。

模倣の異常な低価格化

さらに言えば、ここで起きているのは
音楽制作の民主化だけではない。

もっと根源的な変化がある。

模倣コストの崩壊である。

かつて「〇〇風」を再現するには、

・高度な演奏技術
・作曲理論
・録音環境
・長い訓練期間

が必要だった。

今は違う。

数行のテキスト。
数クリックの操作。
数十秒の待機時間。

「似た感じ」は、異常な低コストで手に入る。

これは創作の革命でもあり、
価値の定義を揺るがす出来事でもある。

問題はAIが音楽を作れるようになったことではない。

「それっぽさ」が無限に安くなったことなのかもしれない。

なぜ人は気持ちよく聴けてしまうのか

では、なぜ私たちはAIによって生成された「〇〇風」を、思いのほか自然に受け入れてしまうのだろうか。

技術的な話をいくら積み重ねても、この感覚の核心には届かない。
むしろ鍵を握っているのは、人間の側にある。

少し冷静に考えてみれば、私たちの脳は元々そこまで“厳密な鑑定士”ではない。

音楽を聴くとき、
私たちは一音一音を論理的に解析しているわけではない。
コード進行を意識的に追っているわけでもない。

多くの場合、起きているのはもっと直感的な処理だ。

「聞いたことがある気がする」
「どこかで触れた感触がある」
「違和感がない」

この“違和感のなさ”こそが、強力な快感として作用する。

人間の脳は、未知よりも既知を好む。

完全に新しいものよりも、
どこかで経験したパターンに近いものの方が安心できる。
予測できるものの方が心地よい。

これは音楽に限った話ではない。

ストーリー、映像、デザイン、文章、会話。
私たちは常に「理解しやすさ」「馴染みやすさ」に引き寄せられている。

「〇〇風」が強い理由も、ここにある。

それは新規性と既知性の、極めて都合の良い混合物だからだ。

完全なコピーではない。
しかし完全な未知でもない。

知っている感覚を刺激しながら、
新しさの錯覚も同時に与える。

脳にとって、これほど効率の良い報酬構造はない。

さらに厄介なのは、
私たちの脳が“オリジナルかどうか”をそれほど重要視していない点である。

感情が動くか。
気持ちよく聴けるか。
気分が良くなるか。

この評価軸の前では、
制作過程の純度は意外なほど後景に退く。

言い換えれば、

私たちは創作物を聴いているというより、
自分の脳内反応を聴いているのかもしれない。

「懐かしい」
「それっぽい」
「知ってる感じがする」

この感覚そのものが商品になりうる時代において、
AI音楽はあまりにも合理的な装置として機能してしまう。

問題は、AIが似た曲を作れることではない。

人間が“似ていること”を気持ちよく消費できてしまうことなのかもしれない。

違和感の正体|なぜ少し気持ち悪いのか

しかし同時に、私たちはどこか拭いきれない違和感も覚えている。

AIによる「〇〇風」を聴いたときに生じる、あの微妙な引っかかり。
完全な拒絶ではない。
だが、全面的な没入とも少し違う。

心地よさの中に、わずかな不安定さが混ざる。

この感覚はどこから来るのだろうか。

ひとつの手がかりは、
「誰の表現なのかが曖昧になる」という奇妙さにある。

通常、音楽には主体が存在する。

この人が歌っている。
この人が演奏している。
この人がこの音を選んだ。

そうした「意志の所在」が、無意識のうちに前提になっている。

だがAI生成物に触れると、その前提がわずかに揺らぐ。

確かに音は鳴っている。
確かに歌も成立している。
しかし、その背後にいる“誰か”の輪郭がぼやける。

そこには作り手の気配があるようで、ない。

この曖昧さは、単なる技術的特徴ではない。
人間の感情認知の構造そのものに触れてくる。

私たちは作品を受け取るとき、
内容だけでなく「誰がそれを生んだか」を同時に感じ取っている。

感情は、しばしば主体と結びつく。

この人がこう感じた。
この人がこう表現した。

その接続があるからこそ、表現は立体感を持つ。

ところがAIの場合、
この帰属先が極端に不安定になる。

誰の感情なのか。
誰の解釈なのか。
そもそも「感情」と呼んでよいのか。

結果として、
感情の着地地点が宙に浮く。

さらに別の違和感もある。

それは「努力の気配」に関わる感覚だ。

人間の創作物には、しばしば時間が染み込んでいる。

試行錯誤。
訓練。
蓄積。
偶然と必然の重なり。

そうした見えない履歴が、作品の厚みを形作る。

しかしAI生成物では、その層が知覚しにくい。

もちろん内部では膨大な計算が走っている。
だが、人間の感覚としての「苦労」や「格闘」の痕跡は希薄になる。

それが悪いという話ではない。

ただ、
表現と時間の結びつきが切断されたような感覚が生じる。

そして最も根源的な揺らぎは、
「創作」と「合成」の境界が曖昧になる点にある。

これは本当に“作られた”のか。
それとも“生成された”だけなのか。

その区別自体が意味を失いつつあるようにも見える。

快感と違和感が同時に存在する理由は、
おそらくここにある。

私たちは新しい技術に触れているのではなく、
表現という概念の輪郭そのものが溶けていく瞬間に立ち会っているのかもしれない。

これは創作なのか?

ここで、どうしても避けて通れない問いに行き着く。

これは創作なのだろうか。

この疑問は、単なる言葉遊びではない。
AI音楽を巡る議論のほぼすべてが、最終的にこの一点へと収束していく。

そもそも「作品」とは何なのか。

それは人間の意志が介在したものを指すのか。
新規性を備えたものだけを呼ぶのか。
あるいは、受け手の感情を動かした時点で成立するのか。

定義は思いのほか揺らぎやすい。

歴史を振り返れば、
音楽も美術も文学も、常に模倣と影響の連鎖の上に築かれてきた。

完全な無からの創造など、ほとんど存在しない。

誰かの影響を受け、
既存の形式を参照し、
過去の文脈を踏まえながら新しい表現が生まれる。

では「〇〇風」は何が違うのか。

ここで問題になるのは、量でも速度でもない。

主体のあり方なのかもしれない。

人間の創作において「スタイル」とは、
単なる外形的特徴ではない。

その人の履歴であり、選択であり、
時間を通過した感覚の堆積でもある。

声の癖。
間の取り方。
音の選び方。

それらは技術というより、存在の痕跡に近い。

しかしAIによるスタイル再現は、この前提を揺さぶる。

スタイルは誰のものなのか。

個人に帰属するものなのか。
パターンとして抽出可能なものなのか。
そもそも所有という概念が適用できるのか。

さらに別の問いも浮上する。

「それっぽさ」には価値があるのだろうか。

私たちは長い間、
オリジナルであることに特別な意味を与えてきた。

唯一性。
新規性。
代替不可能性。

だが現実の消費行動を見ると、少し違う光景も見えてくる。

人はしばしば、
完全な新規よりも「よく知っている何かに似たもの」を好む。

安心できるもの。
理解しやすいもの。
期待を裏切らないもの。

この嗜好の前では、
オリジナルという概念自体が相対化されていく。

もし「心地よさ」や「満足感」が基準になるなら、
創作と合成の境界はどこに引かれるのか。

あるいは、その区別はすでに意味を失いつつあるのか。

答えは簡単ではない。

ただひとつ確かなのは、
AI音楽の登場によって問題が生まれたというより、

私たちが暗黙の前提として信じていた
「創作とは何か」という感覚が露出した
という事実である。

たぶん問題はAIではない

ここまで見てきた現象を、単純にAIの是非へ還元するのはあまり意味がないのかもしれない。

AIは道具であり、技術であり、仕組みに過ぎない。
それ自体に意図も倫理も欲望もない。

少なくとも、私たちが感じている戸惑いや違和感のすべてを
「AIが悪い」という一言で片付けることはできない。

むしろ露わになっているのは、
人間の側にあった前提や欲望の方だ。

私たちは昔から「既知」を好んできた。
理解しやすいものに安心し、
違和感の少ないものに快感を覚える。

そして現代の環境は、その傾向を極端に加速させた。

無限に供給されるコンテンツ。
数秒で判断される価値。
次々に置き換えられる刺激。

この世界において、
「それっぽさ」を高速で生成できるAIは極めて合理的に機能する。

問題はAIが似た曲を作れることではない。

私たちが“似ていること”を強く求める構造の中にいること。

さらに言えば、
オリジナルであることを称賛しながら、
既視感に最も快楽を感じるという矛盾を抱えていること。

AI音楽は、その矛盾を拡張しただけなのかもしれない。

技術が文化を変えたというより、
文化の欲望が技術によって増幅されたとも言える。

だからこそ問いは、常にこちら側へ戻ってくる。

私たちは音楽を聴いているのだろうか。

それとも――

「知っている」という感覚、
「分かる」という安心、
「違和感がない」という快楽を消費しているだけなのだろうか。

もしその境界が曖昧になりつつあるのだとしたら、
変化しているのはAIではなく、
私たちの感受性そのものなのかもしれない。

  • この記事を書いた人

まっきー

「マキログ」は、身体を鍛え、心を整え、思考を磨く——そんな“日々の実験”を記録するブログです。 本の要約や海外インフルエンサーの翻訳を通して、内側から人生を整えていく感覚を綴っています。

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